富樫実と美濃利ビル
『空(くう)にかける階段』
昭和~平成を彫刻家として活躍し続けた富樫実は、仏教思想の普遍的な真理である「空(くう)」そのものを造形作品にしようと、50年以上にわたり、一貫して『空(くう)にかける階段』というタイトルの造形物を彫りつづけた。
木という独特の香りや木目という生命を感じさせる有機的な素材を用いて、幾何学的な直線と曲線を組み合わせて無機的なフォルムを完成させ、そこから無限大に伸びる時空を超えた生命を表現するという試みがこのシリーズの特徴である。
木彫のシリーズを美術館という枠の中でコンスタントに発表する一方で、パブリックな空間に必然性をもって設置される大型作品の制作にも興味を持つ。
彫刻の理想はあくまで「用途」を超越した純粋な表現性にあるのだから「用と美」を兼ね備える工芸とは本質的に異なる。
「用」を考えねばならぬ彫刻は、すでに不純なものとなる。「用」を離れ「場」を得た彫刻こそ真の彫刻である。すなわち屋外空間の中に必然性を持って設置される大型彫刻こそ富樫芸術の真髄がある。
1977年に24時間鑑賞OKというふれこみで、美濃利株式会社が黒大理石のパブリックアートの設置を依頼し、話題になった。
近代的な直線をもとにした新社屋の前に設置されたが、上に向かって緩やかに無限に伸びていく曲線が建築物に見える直線を和ませている。
近代的な直線をもとにした新社屋の前に設置されたが、上に向かって緩やかに無限に伸びていく曲線が建築物に見える直線を和ませている。
美濃利ビルにおける富樫の作品は玄関前にある黒大理石の『空にかける階段77-VIII』だけでなく、その頭上に多くのパイプで組まれた『ヘリコイド物体』(螺旋体)がある。
これは繊維の糸の絡みなのか、美濃利のイニシャル「M」なのか見る人に自由に考えて欲しいとのこと。
またこれ以外にもビルの中、随所に富樫作品が点在する。
一番大きな作品は、美濃利ビルそのものが富樫の作品であると言っても過言でない。
1967年パリに留学していた富樫は、パリの建物の間にある中庭の空間に興味を持ち、その空間の表現を美濃利ビルのデザインに取り入れている。特に正面の複雑な造形はその建物ではなく、建物が作った空間にこそ意味がある。また玄関内は特に富樫が力を注いだ部屋である。壁の大理石、床のタイルは富樫本人がイタリアまで出向いて買い付けてきた素材です。
1979年に富樫はこの美濃利ビルの作品で「ひろば作品賞」を受賞している。
[参考文献]加藤 賢治著『空にかける階段彫刻家富樫実の世界』サンライズ出版2004年
一番大きな作品は、美濃利ビルそのものが富樫の作品であると言っても過言でない。
1967年パリに留学していた富樫は、パリの建物の間にある中庭の空間に興味を持ち、その空間の表現を美濃利ビルのデザインに取り入れている。特に正面の複雑な造形はその建物ではなく、建物が作った空間にこそ意味がある。また玄関内は特に富樫が力を注いだ部屋である。壁の大理石、床のタイルは富樫本人がイタリアまで出向いて買い付けてきた素材です。
1979年に富樫はこの美濃利ビルの作品で「ひろば作品賞」を受賞している。
[参考文献]加藤 賢治著『空にかける階段彫刻家富樫実の世界』サンライズ出版2004年
富樫実について
富樫 実
Togashi Minoru
Togashi Minoru
PROFILE ● 彫刻家 京都市文化功労者/成安造形大学名誉教授/鶴岡市名誉市民 京都府在住 |
これまでの歩み
1931年 | 山形県鶴岡市(旧櫛引町)に生まれる |
1948年 | 岩手県一関市において、仏師佐久間白雲に師事し、仏像彫刻を学ぶ |
1957年 | 京都市立美術大学彫刻家(現・京都市立芸術大学)卒業 |
1963年 | ユーゴスラビア国際彫刻家シンポジウムに日本代表として参加 |
1964年 | 「空にかける階段」シリーズの制作を始める |
1967年 | フランス政府給費留学生選抜・毎日美術コンクール展にて大賞受賞 フランス政府給費留学生として、国立バリ美術学校彫刻科に学ぶ フランス政府賀状コンクールにて大賞受賞 |
1974年 | 京都成安女子学園常務理事となる |
1992年 | 京都府文化賞功労賞受賞 |
1993年 | 成安造形大学学部長となる |
1996年 | 京都美術文化賞、京都市文化功労賞受賞 |
1999年 | 紺綬褒章受章 |
2016年 | 文化庁より地域文化功労者(芸術文化)を受賞 |
美濃利独特のユニークな発想は本社の設計思想にもよく現れています。本社の外観や内装に数多く配置されている直線や曲線。それはファッション産業にとって非常に大切なセンスである「力強さやシャープさ」を表すとともに、「柔軟さや繊細さ」を表現しているのです。またビルの内外には、日本を代表する国際彫刻家である富樫実の作品を多数展示しています。
富樫実と版画
富樫は、昭和42年(1967年)に第2回フランス政府留学生選抜毎日美術コンクール(毎日新聞社、関西日仏学館主催)で大賞を受賞。
作品は深く鋭利な切れ込みの連続が鮮やかな明暗の対象をつくり、あたらしいエネルギーを四方に放出している。自己のスタイルを確立し、年を経てさらに飛躍している様が作品に現れ、傑出して高い評価を得た。
結果、フランス政府給費留学生として昭和42年から翌年(1967年~1968年)までパリに留学したパリではアトリエ17で、S、ウイリアム、ヘイターから版画を、フランス国立パリ美術学校コラマリーニ教室で彫刻を学んだ。
パリ滞在期間中にフランス政府賀状の原画コンクールにて大賞を受賞した。
黒い目を持つ日本人としての芸術活動をさらに深く追求し続ける強い確信を得られた非常に尊い貴重な経験となった。
留学中の富樫は、渡欧以来もっぱら版画の研究と創作に没頭しているが「彫刻は日本でいくらでもできるので、欧州滞在を最もみのりの多いものにするため、ここでは版画に打ち込む事にした」と語っている。
作品は深く鋭利な切れ込みの連続が鮮やかな明暗の対象をつくり、あたらしいエネルギーを四方に放出している。自己のスタイルを確立し、年を経てさらに飛躍している様が作品に現れ、傑出して高い評価を得た。
結果、フランス政府給費留学生として昭和42年から翌年(1967年~1968年)までパリに留学したパリではアトリエ17で、S、ウイリアム、ヘイターから版画を、フランス国立パリ美術学校コラマリーニ教室で彫刻を学んだ。
パリ滞在期間中にフランス政府賀状の原画コンクールにて大賞を受賞した。
黒い目を持つ日本人としての芸術活動をさらに深く追求し続ける強い確信を得られた非常に尊い貴重な経験となった。
留学中の富樫は、渡欧以来もっぱら版画の研究と創作に没頭しているが「彫刻は日本でいくらでもできるので、欧州滞在を最もみのりの多いものにするため、ここでは版画に打ち込む事にした」と語っている。
昭和43年(1968年)1月16日(火曜日)毎日新聞 掲載